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木村鉄太は幕府目付・小栗上野介の従者だった



玉名市亀頭迫(きとさこ)の木村家墓地に地元民が建てた案内板
木村鉄太と小栗上野介
 この遣米使節団は幕府の公式使節が3人で、ほかに役人や従者など日本人77人で構成されていました。
 3人の使節は正使・新見豊前守正興(しんみぶぜんのかみ・まさおき)、副使・村垣淡路守範正(むらがきあわじのかみ・のりまさ)、および監察(目付)小栗豊後守忠順(おぐりぶんごのかみ・ただまさ)で、木村鉄太は監察・小栗忠順の9人の従者の一人でした。

 小栗忠順は三河以来の譜代大名(旗本)の生まれで、幼年から神童といわれ、この遣米使節で豊後守に任官され、禄高は2500石。この使節団では、知識、行動力、決断力など、抜きん出た存在でした。

 この小栗公のもとで鉄太は9ヶ月間にわたり、世界一周の航海と異国の視察、行事に明け暮れたのでした。

 この小栗忠順は帰朝後は外国奉行、陸軍奉行、軍艦奉行、勘定奉行などの要職を歴任し、日本最初の株式会社を設立したり、横須賀に製鉄所(造船所)をつくるなど、海外見聞を生かしてめざましい活躍をしました。
 そして慶応4年(1868)の維新の政変時には、「幕臣は幕府を守るのが勤め」と、幕府側に立ってあくまで徹底抗戦を唱えて聞き入れられず、間もなく知行地の一つだった上州(群馬県)権田村(現高崎市倉渕町権田)に引き上げました。

 しかし、新政府の追及は権田村に隠棲した小栗に及び、同年閏4月、養子や部下2人とともに権田村で斬首されました。
 「罪なくして斬られた」小栗公(文久2年=1862=には小栗上野介・こうずけのすけと名乗った)の無念を晴らし、優れた治績を後世に伝えようと、地元では東善寺(曹洞宗)の村上住職を中心に、その功績を顕彰する「小栗まつり」など数々の催しが行われています。
東善寺のホームページへリンク
平成18年4月、玉名市大倉亀頭迫にある木村鉄太と木村家累代の墓を詣でた群馬・東善寺の村上住職( 右は[航米記」を編纂・発行した熊本市の高野さん


平成18年5月21日、高野和人さんは講師として招かれ、恒例の小栗まつりで特別講演した
(群馬県高崎市倉渕町、倉渕中央小学校)


世界一周航海で木村鉄太の主人だった小栗上野介の胸像の前に立つ高野和人さん。供養に持参した高瀬飴を供えた
(群馬県高崎市倉渕町、東善寺境内)

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