| 木村鉄太と小栗豊後守 | ||
幕末、玉名はすごいサムライを世に送り出していた
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ワシントンの写真館で撮影した木村鉄太の肖像写真(部分。個人蔵) この年、木村鉄太は32歳。しかし、世界一周して帰国途中、病(肺結核)に冒され、帰国後の療養もむなしく、34歳の若さで亡くなった。 玉名市大倉亀頭迫(きとさこ)には遺髪を納めた木村鉄太の墓がある。 |
黒船来航を機に江戸へ 7年間学問に励む
幕府の万延元年遣米使節従者として世界一周
| 木村鉄太は文政11年(1828)、高瀬生まれ。父は木村甚左衛門。のち、同族の木村才記の養子になった(才記の実子・木村弦雄=熊本中学校長、済々黌黌長など歴任=は、10歳年下の義弟にあたる)。 32歳の万延元年(1860)に幕府の遣米使節従者として世界一周して帰国したが、2年後の文久2年(1862)、34歳で早世した。結婚しなかったので、妻子はなかった。 木村家は高瀬港で廻船問屋「木村屋」を営み、持ち船「吉祥丸・きっしょうまる」で藩米を大坂などに運んでいた豪商。一方、蓄財した金品を代々、藩に献上して名字帯刀を許された金納郷士(200石の寸志知行取)でもあった。酒商売や御赦免開きの田畑を持っていたことを示す資料も残っている。 鉄太(諱・いみなは敬直・よしなお)はその木村家の子として何不自由なく育ち、小さいころから高瀬で学問に励んだ。そして嘉永6年(1853)、アメリカ・ペリー提督率いる黒船が浦賀に来た年の秋、地元の私塾のっ師匠・平山玄民先生が医学遊学で江戸の上るのに同道して江戸に向かった。 江戸では昌平坂学問所で安積艮斎先生の講義を中心に漢学、朱子学を学び、手塚律蔵先生からは蘭学(洋学)を学んで、自らの出番が来るのを待った。それは江戸に出て6年後に、遣米使節団の従者として世界一周に参加する形で実現した。 |
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「万延元年遣米使節 航米記」は昭和49年、木村鉄太の記録した日記(和紙に毛筆書き)とスケッチ絵をそのまま写真撮影した「影印本」として、図書出版青潮社(熊本市)から出版され、全国的に大きな反響を呼びました (左写真)。 |
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今から30年以上前に出版された影印本(上の写真)は、筆文字で書かれた難しい文体、漢字・当て字で、一般の人には読みにくかったため、平成17年春、高野さんは文章を現代語に直して、熊本日日新聞社から同名の活字本を出版しました。それが左写真の本です。 現代語訳「航米記」 (定価・税込み2100円) 現代語訳本には巻末に詳しい解説文があって、木村鉄太がどれほどこの使節団に参加したかったか、参加するためにどう手を打ったか、それができたのはなぜだったのか―なども、詳しく書いてあります。 それを読むと、かつて高瀬が肥後藩のカネ蔵であり、学問の中心地でもあったことがよく分かります。 |