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【肥後新陰流剣術】
(ひご・しんかげりゅう)
 新陰流そのものの源流は応仁のころ(1460年代)の愛洲移香斎までさかのぼるともいわれるが、新陰流の集大成者は上州(現群馬県)箕輪(みのわ)城主に仕えた上泉武蔵守信綱(はじめ伊勢守秀綱)。信綱は諸流の奥義を極め、特に陰流から奇妙の法(転=まろばし)を工夫発明して、1560年代に新陰流を創めたとされる。
 この信綱の高弟に大和(奈良)の柳生宗厳(やぎゅうむねよし)、上州の匹田豊五郎(又は文五郎。上泉の甥)、人吉相良の丸目蔵人佐(くらんどのすけ)、大和の宝蔵院胤栄(いんえい)などがおり、柳生家が伝承・発展した流派が柳生新陰流とされる。

 肥後新陰流の祖は信綱の高弟の一人、匹田(又は疋田)豊五郎で、武者修行の途中、細川家に召抱えられて新陰流を指南した。肥後では高弟上野左右馬助景用がこれを継承し、以後、長らく上野家が宗家を務めた。1750年代半ばに和田家が門弟一同を譲り受けると、以後、明治維新まで和田家が師範を勤めた。
 
 明治から大正にかけて、熊本の剣道を隆盛に導いたのが、明治4年(1871)に父から跡目相続した和田家5代、和田傳(つとう)師範。
 廃藩で時習館が廃校になると、翌明治5年には自ら道場を建設して門弟を育てたほか、振武会道場や警察署、中学、五高などで撃剣を教え、門弟を育てた。大正5年(1916)に74歳で亡くなるまで、熊本の剣道界の長老、新陰流の達人として全国に知られた。

 後を継いだ実弟野田長三郎範士(養子先の野田を名乗った)も六師団や警察、中学で撃剣を教え、明治33年には本山の自宅に剣道場龍驤館を開いて、新陰流の普及に尽力した。以後、古賀、相川、紫垣と高弟が継承して今日に至っている。
 
 形は陰、陽、光陰の三つの剣があり、陰は右に剣を構え、陽は左側に構える。光陰は光が日月星からまっすぐに来ることから、上下左右に偏らず構える剣をいう。また、流儀は「陰陽」表裏ととらえ、「陰中の陽は心の中の技」「陽中の陰は技の中の心」とする。

◇連絡先 剣道龍驤館(熊本市出水1丁目4−7、電話096−364−4692)
宗家 相川学、師範 紫垣正光、紫垣正刀

◇系統 (愛洲移香斎久忠―愛洲元香斎宗道―上泉武蔵守信綱―)匹田豊五郎景兼入道栖雲斎(肥後新陰流祖)―上野左右馬助景用―上野喜三右衛門景末―上野喜三右衛門景根―上野甚五右衛門景明―和田傳兵衛定高―和田金右衛門陳高―和田傳兵衛高倫―和田金左衛門高徳―和田傳高英―和田喜傳高安―野田長三郎―古賀栄信―古賀徳孝―相川学―紫垣正光―紫垣正刀 

◇練習場 龍驤館(熊本市出水)  


 肥後新影流剣術(資料写真)
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