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【雲弘流剣術】
(うんこうりゅう・けんじゅつ)

 天真正伝神道流を学んだ奥州家伊達(だて)家の士、樋口七郎右衛門不勘(又は不堪)が、これを改良して一流を起こし、弘流と称した(寛文年間=1660年代)。
この不堪の高弟だった仙台藩士・井鳥五郎右衛門為信が江戸に出たとき、無住心剣流の小出切(又は小田切)一雲に出会って、その非凡さに敬服し、門人になった。
ここで印可を得、新たな一派を始めるに当たり、一雲の「雲」と不堪の「弘流」から「雲弘流」と名づけ、剣道指南を始めた。井鳥為信は巨雲と号した。


 肥後の雲弘流は宝暦4年(1754)に第8代細川重賢公が城内に設立した藩校時習館から始まった。武芸所(講武所。東しゃ=木編に射=、西しゃがあった)の開所(宝暦4年=1754)に当たり、全国から優れた武芸者を招いたが、このとき重賢公に望まれて剣道師範になったのが、井鳥巨雲の子、井鳥直右衛門景雲。8年の後には門人は200人に及んだという。

 景雲の一人息子が早世したため、高弟の建部貞右衛門流雲が跡を継ぎ、以後、東・西しゃの師役は幕末まで代々、建部家が継いだ。
君公のそばに控える武芸者の中に必ず一人は雲弘流の遣い手が置かれたほど、即戦力のある実戦剣法であった。


 技の特徴は、ことさらに知恵才覚を働かし、技の枝葉に走って芸に陥ることを戒め、無心で討ち込むことにある。加えて「自己の身体を傷つけずに人を斬ると思う如きは卑劣な心であって、相討ちして死ぬぐらいの覚悟が必要」だとして、勝負を離れ、もっぱら打たれて修業すべし−とする。

肥後藩家老・長岡監物、明治の豪傑政治家・安場保和らがこの門下で学んだ。

◇ 連絡先 宗家 井上弘道(熊本市横手4丁目21−22)

◇ 系統 (樋口不=●元雲―針谷五郎兵衛夕雲―小出切空鈍一雲)―井鳥五郎右衛門巨雲―井鳥直右衛門景雲――建部貞右衛門流雲―建部九郎助帰雲―建部貞右衛門大雲―建部青一郎青雲―建部長敬寂雲―建部真八郎保雲―野々口常人徳雲―高橋長鑑微雲―岡崎唯雄旡雲―建部忠平祥雲―建部健三郎健雲―井上平太皆雲―井上●(馬編に尤)伯雲―井上弘道尤雲
*系統を井鳥助之允巨雲―井鳥五郎右衛門景雲―建部貞右衛門流雲とする資料もある。

◇練習場 天真しゃ(=木編に射の字。熊本市横手)

 雲弘流剣術(19年4月29日 熊本県古武道演武大会で)

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