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日野式拳銃、自動人力車、ヒノモーター、固形燃料… 日野熊蔵にとって、飛行機開発は人生の一部分でしかなかった |
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| 日野熊蔵の発明の才には驚かされる。「略歴」と一部重複するが、以下「日野熊蔵伝−日本初のパイロット−」から主な発明・研究を拾ってみる−。 | |
| ・14歳で熊本英学校に入学するが、そのころは火器に興味を持っていて、旧式のレミントン銃をもてあそんだり、傘の柄のような鉄管を持ってきて、鉄砲を作ったりした。 ・陸軍技術審査部時代(25・26歳)は砲兵工廠で手榴弾や自動車、ロケット弾、空気砲などの考案・思索に没頭した。 ・有名な日野式拳銃の特許を取得したのは明治37年3月、熊蔵26歳のときである。 ・明治40年、29歳で結婚するが、31歳のころは自動歩騎銃、軽機関銃、三八式小銃新弾薬、歩兵砲、迫撃砲などの研究に没頭。 ・日野式自動人力車の写真が雑誌で紹介されたのは明治43年、彼が32歳のときである。しかし、時代の要請の中、ほどなく興味は空へ移る。 ・陸軍に臨時軍用気球研究会が発足したのは明治42年7月で、彼は同会委員に任命され、まず気球の開発の取り組んだ。 ・飛行機の開発に取り組むのは熊蔵がもっとも早かった。彼は自動車用発動機を改良して飛行機のエンジンに使うことを考え、自作のエンジンと機体で「日野式1号機」をつくり、初の飛行実験をした(実験は不調)。明治43年3月、32歳の年であった。 ・この明治43年は、飛行機操縦訓練と飛行機購入のために徳川好敏大尉と欧州に出かけ、帰国早々、飛行訓練やエンジン改良を重ねて、12月19日、グラーデ機(日野大尉)とファルマン機(徳川大尉)ともに国内初飛行に成功した年である。 ・日野式2号機の開発は明治44年初め、同3号機(舞鶴号)と、3号機を改造した水上機(神風号)の開発・飛行実験は45年である。 ・大正6年(39歳)、福岡から東京へ戻った日野はふたたび発動機の研究を開始し、自動自転車や自動人力車などを試作している。このあと数年間、庭先の工作場で防火燃料、固形燃料、道路舗装材などの製造やオートバイの組み立てなどに没頭している。 ・「ヒノモーター」の商標登録は大正9年(42歳)。 ・このあと、昭和の初めは熊蔵が体調を崩して療養を強いられ、家計は困窮が続いた。 ・昭和11年(58歳)、萱場製作所に入社し、木村秀政らと無尾翼機(グライダー)の開発に取り組み、成功した。 ・昭和18年から19年にかけて特許を申請し、取得したのは以下のような機構、装置である。 ○飛行機操縦装置 ○銃尾機構 ○照準機構 ○弾倉機構 ○撃鉄機構 ○水中噴嘴装置 このうち飛行機操縦装置は国の発明展覧会で優秀さが認められ、特許局及び技術院賞を受けた。 |