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あのときから100年。

明治43年(1910)12月19日、東京・代々木練兵場(現・代々木森林公園)−。

●午前7時55分、徳川好敏大尉が乗り込んだアンリー・ファルマン複葉機(フランス製)は勢いよく飛び立つと、場内を3周して着陸した。最高高度70m、距離3000m、滞空時間4分間。(写真上)

●午後1時半過ぎ、日野熊蔵大尉が操縦するグラーデ単葉機(ドイツ製)は、4気筒エンジンのうち1気筒は点火しないまま離陸、1000mの距離を最高高度45mで半円形に飛んで着陸した。飛行時間1分20秒。(写真下)

 これが、日本航空の発祥の模様である。
(渋谷敦著「日野熊蔵伝 -日本初のパイロットー」から抄訳)

写真は科学博物館で渋谷敦氏複写
 この歴史的瞬間から時は流れて、平成22年(2010)に日本航空発祥100年を迎えました。この1世紀における日本の、世界の航空界の発展は驚くばかりです。
 この初飛行から50年後の昭和35年(1960)には東京を中心に「日本航空50年記念行事」や「航空50年展」などが盛大に開かれました。
 いま、代々木森林公園内には「日本航空発始之碑」があり、徳川・日野両氏の胸像が並び立っています。しかし、二人の功績が同様に評価されるようになるまでは50年の時間を必要としました。
 徳川氏は名門徳川家ゆかりの出身で、このあと所沢飛行学校長、航空兵団長、同司令官などを歴任し、航空50年記念行事では航空機で世界一周するなど、文字通り日本の航空界の表舞台で長年活躍しました。
 これに比べると、日野熊蔵は軍人というよりむしろ発明家で、初飛行のあとは自費で飛行機製作に没頭。やがて歩兵大隊付きとなったことなどから、40歳で軍を退役。以後は不遇の中で自動人力車、兵器やロケット砲、自動車、固形燃料などの研究・製造に没頭して、昭和21年(終戦の翌年)、67歳で永眠しました。
 このように対照的な2人でしたから、いつしか「日本人初のパイロット」「日本の空のパイオニア」の栄光は徳川好敏氏一人に冠せられるようになり、日野熊蔵の名前は日本航空50年記念式典まではほとんど忘れられていたのでした。

 航空始発から100年。大きな節目を迎えて、航空業界や関係者の間で、さまざまな企画が検討され、実行に移されることでしょう。そのとき、薄幸のパイロット・発明家として世を去った日野熊蔵に新たな光が当てられ、正しい評価がなされることを期待したいものです。

 写真は明治43年12月19日、初飛行後、互いの健闘を喜び合う二人。左が 日野大尉、右が徳川大尉  (科学博物館で渋谷敦氏複写)

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